「生活の中のイスラーム−2−」

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■イスラームと現代世界編 第11回

「生活の中のイスラーム−2−」

1.イスラーム信仰の基本

 イスラーム教徒の一生は前号で記したように単純なものである。恐らく数多ある宗教の中でその単純性は群を抜いているものと思える。当然のことながら信徒の一年もまた同じように単純である。単純こそイスラーム教の大きな特徴の一つで、それがアジア、アフリカへの布教を容易ならしめた。21世紀にならんとする現在もまだイスラーム教徒の数が増え続けているのは、この単純性によるものである。もちろんイスラーム教は一つの世界であるから、教徒となれば見も知らぬ教徒との接触が大きな恩恵を与えることにもよるが、牧師も神父も、ましてや僧侶もいないイスラーム教の世界では、堅苦しい環境を持たないと言うことにもよろう。

 原則的にイスラーム教徒は、アッラーとの直接的関係に置かれている。両者の間にはいかなる者も立ち入ることは出来ない。特にアラブのイスラーム教徒はこの考えが徹底していて、イスラーム教徒が他のイスラーム教徒の生活を見て注意するということは出過ぎた行為として、逆に「お前はアッラーか」とたしなめられる。たとえば礼拝を行わなかったり、断食をしなかった時に、近しい者がその怠慢を忠告すると、このような言葉が即座に帰ってくるのである。

 このアッラーとイスラーム教徒の間に何者も入り込むことが出来ないという規則は、イスラーム世界の拡大を促したことは否定できない。他人事に必要以上な関心を持つ日本人にはとうていい分からないことであるが、イスラーム教徒を見て、真面目なイスラーム教徒と不真面目なイスラーム教徒というような区別、評価をしないのがイスラーム教徒なのである。それゆえイスラーム教徒の日常生活は、他人が介入しない極く平穏な世界であると言える。

 このような環境のなかでイスラーム教徒は六っの事柄を信じ、五っの行を行うことが義務づけられている。これを「六信五行」と言い、イスラーム教徒に課せられた義務であるとされている。

2.イスラーム教徒として信仰しなければならない六つの信仰

 イスラーム教徒に課せられた六っの信仰とは、・アッラーを信じること・アッラーの天使を信じること・アッラーの経典を信じること・アッラーの預言者を信じること・最後の審判の日を信じること・天命を信じること、である。すなわち、この六信を信じ生活を送る者がイスラーム教徒であるということになる。

 
この六信はイスラーム教の根幹をなすもので、この信仰に少しでも疑いを持つ者はイスラーム教徒ではなくなる。逆説的に言えば、これら六信を信じている者がイスラーム教徒であるから、イスラーム教徒に対して「あなたはアッラーを信じていますか」とか、「ムハンマドが預言者であることを信じていますか」等の質問は馬鹿げているということになる。信じていない者はイスラーム教徒ではないのであるから、この種の質問は愚問もいいところということになる。

 この六つの信仰は常日頃口にだす必要はなく、ただ信じて疑わないことが義務であり、その信仰の証はアッラーだけが知るところとなる。もしこの六信を信じなくしてイスラーム教徒を装っていたならば、来世では地獄の生活が待っていることとなる。

 ムハンマドが預言者、アッラ―の使徒であることに少しでも疑いを持ったイスラーム教徒は、アッラーの怒にふれ、最後の審判では地獄への道が約束されるとされている。教徒の信仰心が本当であるかどうかはアッラーしか知らず、他のイスラーム教徒の感知するところではない。

 六信のことをアラビア語では「イマーン」と呼ばれ、「信仰」と訳される。すなわちこの六カ条すべてが信仰であり、どれ一つ欠けても信仰は成立しない。よってイスラーム教徒はこの六カ条を信じて初めてイスラーム教徒となる。次に六信を説明する。

 まず最初に信仰すべきことはアッラーの存在である。「アッラーを信じること」。アッラーとはアラビア語の神を表す普通名詞「イラーフ」に定冠詞「アル」を付加して限定名詞としたもので、英語の「THE GOD」という名詞に相当する。それゆえ日本の神名のような固有名詞とは異なる。イスラーム教はアッラーの存在を信じることに始まり、アッラーを信じることに終わるが、名もなく、形もなく、その存在すらもはっきりしないが、常に信者の傍にあって、すべての支配者であるとされている。イスラーム教徒はこはアッラーの奴隷として、その主人に絶対的な服従を誓う。それがイスラーム教徒となる。クラーンの第二章第255節、及び第112章にはアッラーの絶対性に関して力強く記されている。

 次に信じなければならないことは「アッラーの天使を信じること」である。イスラーム教の大表的な天使は4人おり、その中でもアッラーの言葉を預言者ムハンマドに届けた「ジブリエール」が特に有名である。この存在を信じるということは、預言者の言葉が、アッラーのものであるということを信じる、ということになる。

 第三番目に信じることは「アッラーの経典」である。イスラーム教の経典「クラーン」がアッラーの言葉であると言うことを信じることである。イスラーム教ではアーダム、セト、イドリース、アブラハム、モーゼ、ダビデ、イエス、ムハンマド等がアッラーから経典を受けたとされているが、これらの経典をアッラーの言葉であると信じる者がイスラーム教徒となる。

 第四番目の信仰は「アッラーの預言者を信じる」ことである。クラーンには25名の預言者の名が上げられているが、イスラーム教では偉大な預言者として、アーダム、ノア、イブラーヒーム、モーゼ、イエス、ムハンマドの6名の名を上げている。その中でムハンマドは最後の預言者にして最も偉大な預言者であるとしている。これを信じること。これが第四番目の信仰である。

 第五番目は「審判の日を信じること」である。クラーン第57章20節に「あなたがたの現世の生活は遊び戯れに過ぎず、また虚飾と、たがいの間の誇示であり、財産と子女の張り合いに過ぎないことを知れ。現世の生活をたとえれば慈風のようなもので、作物は成長して農夫を喜ばせる。やがてそれは枯れて黄色に変わり、次いで粉々になり果てるのをあなたがたは見るであろう。だが来世においては不義の徒に厳しい微罪があり、また正義の徒にはアッラーから寛容と善賞を授かろう。本当に現世の生活は、虚しい欺瞞の享楽に過ぎない」と述べられ、来世を前提とする現世の生活の大切さを説いている。アッラーは、現世での行いを審査する最後の審判の日を信じることにより、現世での生活を正しいものにする効果を期待したものと考えられるが、この最後の審判の日を信じることが、正しいイスラーム教徒として必要不可欠の信仰となした。

 最後の信仰は「天命を信じること」である。この天命という言葉はアラビア語の「カダル」と言う言葉を訳したものであるが、この意味はこの世のすべてのことは「アッラーの意によるものである」というもので、あらゆる天変地異に限らず人間が起こす戦争、紛争、また日常起きるすべてのことがアッラーの御心により起きるということを信じると言うことである。

 湯飲み茶碗が壊れたときも、お金を落としたときも、礼拝をしたいという気が起きないときも、断食の月に断食をする気になれないことも、これすべてアッラーのなせることであるとという意味での天命である。このためイスラーム教徒は、礼拝するとそのことをアッラーに感謝し、断食をすると、そのことをアッラーに感謝する。断食を行を行えないときには、アッラーを恨むなという慰めの言葉が、友人、家族からかけられる。すなわちイスラーム教徒には自分の意志が存在せず、すべてアッラーの意向により行動が決定されると説明する。このことを信じる者がイスラーム教徒となる。

 以上が六信である。これを信じる者がイスラーム教徒となり、これらを疑いもせず信じることが出来ることもまたアッラーのおかげであるとし、祝福されたイスラーム教徒としてアッラーに感謝することになる。

 これらの信仰は人の前で明示することではなく、あくまでもアッラーと個人との間で取り交わされるものである。アッラーだけ認めればそれはよいことで、イスラーム教徒の認証などは必要ではない。イスラーム教徒はイスラーム教徒の信仰心を判断する資格はなく、日本人がよく言うような真面目なイスラーム教徒、不真面目なイスラーム教徒等と言う評価は、イスラーム教世界では正当性を持たない。それが出来るのはアッラーだけである。

 近年イスラーム運動が大きな関心を呼んでいるが、この運動はあるイスラーム教徒に対して、不真面目なイスラーム教徒としての評価を下し、それを是正しようとするところに大きな特徴があるが、それはアッラーのみが持つ権限への侵害であるとし、正しいイスラーム教の信仰ではないとする見解がある。すなわち彼らは異端であるとする見解は、最後の信である「カダル」の信仰によるものである。

3.イスラーム教徒の日常生活を司る五つの行

 さて六信を信じイスラーム教徒となった者は次の五つの行が課せられる。これは行であるからイスラーム教徒であることが明確に表現されることとなる。イスラーム教徒として日常生活を特徴付ける行は五つある。通称「五つの柱」とも呼ばれる義務行為は、「信仰の告白」「礼拝」「喜捨」「斎戒」「巡礼」の五つである。

 最初の「信仰の告白」とは「アッラーの外に神はなく、ムハンマドは神の使徒なり」という文句を唱えることである。この言葉は、サウディアラビア王国の国旗に書かれている言葉で、同国がこの文句を国旗にしたということは、国家そのものがイスラーム教徒の国家であることを宣言していることを意味している。また湾岸戦争終了後のイラクが、この言葉を国旗に加えたのは、己の行動をイスラーム教に正当性を求めたからにほかならないが、それに関してイスラーム教徒が疑問の声を上げないのは、先に記したような理由によるものであろう。

 二番目の行は「礼拝」である。礼拝は一日五回日の出前から就寝前までメッカの方向に向かって行われる。場所は特に規定はなく、また一人でも出来る。だが金曜日の昼の礼拝だけは、一人での礼拝は意味のないものとされ、必ず集団で行わなければならない。このため礼拝所が必要であり、アラビア語で「ジャーミウ」と呼ばれる。「ジャーミウ」という言葉の語源は「集まる」という意味で、金曜日もこの言葉で表される。直訳すると金曜日は「人の集まる日」であり、礼拝所は「人の集まる場所」となる。ちなみにこの時の礼拝の後、イスラーム法に関する話をイスラーム学者が行うが、このため大学がこの礼拝所に付属する。この大学もまた「ジャーミア」と呼ばれるが、礼拝所が男性名詞、大学は女性名詞である。

 三番目の行「喜捨」は「貧者への施し」「イスラーム世界の維持のため」に行われ、その額は原則的に個人の判断に任されている場合と、規定されている場合がある。前者の喜捨を「サダカ」と言い後者の喜捨を「ザカート」と呼称される。「ザカート」は収入に対して一定の額の規定があり2.5%から10%が義務づけられている。「サダカ」は善意で行われる喜捨で、貧者に対するものであることは誰にでも分かるが、面白いのは、身の代金の支払などにも充てられる。

 これはアラブ世界での戦争は相手の最高指揮官を捕虜にしい、その身の代金を取るということが常に行われるからだ。イラクがクウェートに侵略して湾岸戦争が始まったが、イラクがクウェートに入った目的はクウェートの首長を誘拐し身の代金を獲得することがその目的であったことはアラブ世界では誰でもが知っていることであるが、これもイラクのフセイン大統領は「サダカ」を期待したからに外ならない。

 この義務としての行はアラブ・イスラーム世界で生活の潤滑油となっているが、貧者が堂々として「サダカ」を要求する姿には、非常に興味深いものがある。卑屈なところは全くなく、堂々と喜捨を要求する姿に戸惑いを感じるが、それは彼らが義務としての行サダカを行えるチャンスを俺達が与えてやっているのだと考えているからだ。フセイン大統領の行動もそのような考えに基づいていたのかも知れない。

 第四番目の義務行為は「斎戒」すなわち「断食」である。イスラーム暦の9月は「ラマダ―ンの月」と呼称され、「断食月」としての特徴をもつ。クラーンがこの月に下りたとされ、一切の不浄を断ち、清潔な一月を送る。その意味では「断食月」と言うよりも「斎戒沐浴の月」との呼称が適切であろう。

 断食をする月を設けるという習慣はイスラーム以前からこの世界にはあったようである。イスラーム教はそれをきちんとしたシステムとした。教徒は一日を斎戒の中で過ごすことになるが、日の出から日没までの間、唾も飲み込まないという断食を行うことから、断食だけが目立つが、この期間、クラーンを読み、信仰を再認識し、清潔な日々を送ることが義務づけられる。もちろん男女の交わりは禁じられ、喧嘩もご法度である。

 最後の義務としての行は「巡礼」である。すなわちメッカ詣であるが、これは大変な資金がかかるため全てのイスラーム教徒が出来るとはかぎらない。彼らはこのために「巡礼積立預金」をするが、この行を行える者は10億のイスラーム教徒の内、年100万人ぐらいなものである。それゆえ巡礼をすることは大変名誉なこととされ、巡礼者は「ハッジ」という名称を名の上に冠して呼ばれ、尊敬を集める。

 以上が六信五行と言われるもので、六信を信じた者をイスラーム教徒と呼ばれ、義務行為である行を行うことにより、世間に表現することとなる。教徒はこれらの義務を守ことによってアッラーに信仰の正しさを表明することとなるが、正しき生活を送らない者に対しては、行を行えないような状況を教徒に与えるとされている。断食月に断食をするという気力が生まれない教徒は、アッラーがその気力を与えなかったと判断し、次年度の断食時にはその気力をアッラーが与えてくれる事を願い、真面目な一年を送ることとなる。それが「天命」すなわち「カダル」である。